故に論語を哲学的観察から言へば、哲学的ではないと言はれるが、機に臨み変に応じての批評のあるのは論語の面白い処でもあり、又論語としての価値ある所以でもある。然らば之れを吾人の日常の行動、即ち実践の上にはどうかと云ふに、私の考へる処によると何人でも論語の教へる処を服膺して行けば、その行為に於ては決して大過はないものと思ふ。若し論語にして宗教にあつたならば、バイブルとして尊重されたかも知れない。私は宗教が嫌ひであるから宗教の必要をも感じないのみでなく、この論語があるので尚更宗教の必要はない。殊に私の宗教を嫌ふ所以のものは、その事柄の奇蹟的であることである。中に阿弥陀に願つて救つて貰ふと云ふやうなことを云ふが、何も阿弥陀に願はなくとも人として善い事をすればよいではないか。人の本分を尽せばよいではないか。その人の本能を十分に発揮して自己の利益ばかりでなく、国家、社会の為めに尽せばよい。人の本分を尽して居れば、何も宗教によつて助けて貰ふことも救うて貰ふ必要もない。論語の学而篇に「為人謀而不忠乎。与朋友交而不信乎。伝不習乎」とあるは、個人として将又社会人としての道を説いて居る。而も宗教の如く奇蹟的でも何でもないことなどから見ても、論語は如何に実際的であるかを推知することが出来る。